5月9日

クラス委員長

本年度の大東・学研都市校のリーダーである平田委員長です。

第6期受講生35名が、みんなで力を合わせ

 

「楽しく学び、健康で過ごせる一年にしていこう」と決意を込めた挨拶がありました。

午前 大東・四條畷を知ろう

本日は大東・四條畷を知ろうという学習で、午前中は「大東周辺、その昔」というテーマでの講義でした。

 

 

文化財愛護推進委員の林田惠子様が講義をしてくださいました。

 

 

昭和34年、中垣内の変電所建設工事にて、石器が発見されました。これは約二万年前の旧石器時代のものだそうです。つまり、大東市域には当時から人が生活していたということです。

 

古墳時代には大東市域でも多くの古墳が作られたようです。

代表的なのは七基の古墳からなる堂山古墳群です。

さらにこの時代には馬が大陸から連れてこられました。蔀屋は馬の放牧地だったようです。

 

 

 

奈良時代には河内国に茨田郡・讃良郡が登場しました。

鎌倉時代には、大東市域は東大阪市水走を本拠とする「水走氏」の領地でした。

戦国時代には、飯盛城を居城とする三好長慶が大東をはじめ畿内全土に勢力を広げていました。

大東市に広がっていた深野池が、大和川の付け替え工事により新田として生まれ変わりました。しかし土地が低い地域に変わりはなく、昭和50年まで水害に悩まされ続けることになります。現在は様々な水害対策が施されています。

わずか90分の講義でしたが、大東市23000年の歴史を学ぶことができた有意義な時間でした。

午後 野崎まいり

午後は大東市の名所「野崎観音」への野崎まいりです。

大東市ボランティアガイドの林田さんと柴田さんに案内していただきながら、JR野崎駅から江戸時代の参詣ルートで野崎観音まで行きました。

 

 

まずは観音浜。ここは大阪の八軒屋浜から、船で寝屋川を上ってきた人も、歩いてきた人も合流する浜です。そしてここからは徒歩で太子堂を参詣後に慈眼寺の観音様まで参詣する慣わしだったようです。この観音浜までの道中では、船に乗る人と歩く人の間で、「降り売り喧嘩」と言われる言葉遊びが行われました。

大東市のマンホールの蓋にも、当時の野崎まいりの様子が描かれています。

次の目的地は大東市立歴史民俗資料館です。

ここには大東市の遺跡から出土した土器や農具・冑など、古代の様子を残す貴重な品々が展示されていました。また午前中の講義で学んだ大東市の歴史や、野崎まいりに使用された田舟も展示されていました。

ここは専應寺。この境内には聖徳太子像が安置された太子堂があり、昔から野崎まいりはこの太子堂に詣でてから観音様に向かわれるのが正規のルートだったようです。

 

下記は境内の専応寺由来の内容です⬇

 

専應寺と大坂城

 

せんのう 専應寺は、浄土真宗本願寺派の阿弥陀如来を本尊と する寺院です。江戸時代中期の建築様式を持つ本堂・ 聖徳太子像を する太子堂・鐘楼・山門・庫裏があ ります。

 

しんらん ゆいしん 創建は鎌倉時代後期、親鸞の直弟子二十四輩の一人、 唯信とされています。また、延宝八(一六八〇)年鋳 造の梵鐘の銘文によると、第九世正了の時代(一五世 紀末から一六世紀初頃)に寺院の基礎が確立し、一旦、 戦国時代の戦乱で荒廃しましたが、江戸時代の初めに 再建され、以後、江戸時代中期までに本堂や太子堂が 整備されたと伝わっています。

 

太子像は、聖徳太子自作と伝わる孝養像(父用明天 皇の病気平癒を祈願する太子一六歳の姿)で、毎年春 秋の彼岸に公開され、多くの参拝者を集めていました。 野崎まいりもこの太子堂に詣でてから、北の野崎観音 (慈眼寺)へ向かうのが一般的な道筋であったとされ きょうようぞう ています。

 

げんな きょうご てんかふし たんごのかみたかとも ちょうずば また、今から約四百年前の元和年間、諸藩に命じて 天下普請で行われた徳川の大坂城築城の際には、京極 丹後守高知(一五七二~一六二二)がこの寺に陣屋を 設け、石垣用の石を切り出していました。切り出され た石は、野崎の浜から船で、旧大和川(深野池・寝屋 川)を下り、大坂城まで運ばれました。滞在の礼とし て、丹後守は、寺の石垣と階段を積み、手水鉢を寄進 したとされています。現在も石垣には「丹」の刻印や 矢穴の跡を見ることができ、境内の手水鉢には「寄附 京極丹後守」の銘が刻まれています。

 

平成二六年 大東市教育委員会

 

いよいよ最終目的地、野崎観音様の慈眼寺です。

急な石段を登り

三門(山門ではありません)をくぐると本堂(観音堂)です。到着しました。

予想以上に暑かったですが、無事に野崎まいりができました。

林田様、柴田様、お世話になりました。皆さんお疲れ様でした。